frown
当ブログ、「frown 」は二次創作テキストブログです。 純情エゴイストが好きすぎて、その想いをひたすら吐き出しております。 女性向け、同人・BL要素が含まれておりますので、閲覧の際には何卒ご注意ください。 原作者、版権元、など公式のものとは一切関係ありません。 ブログ内の文章の無断転載・引用はお断りします。
夏の特別な日
夏のM大文学部
「もし、上條助教授の講義に野分が紛れていたら?」
というリクエストいただいて書きました。
2015.5.12
「もし、上條助教授の講義に野分が紛れていたら?」
というリクエストいただいて書きました。
2015.5.12
夏の日差しのせいだろうか。
ついこの前までは自分も学生だった気がしているのに、目の前を歩く学生の姿がなんだかひどく眩しく見える。
それでも今日だけは、ここの学生のつもりで過ごそう
母校ではないけれど、何度か来たことのある構内を歩きながら、野分は久しぶりに感じる学生気分に心が躍っていた。
間違えないように確認すると、少し緊張しながら教室の入り口をくぐる。
見渡して、どこの大学も似たようなものなんだな、と一人で納得しながら、空いている席を探した。
夏季集中講義の一限目。朝早い時間にも関わらず、すでに教室は夏の空気が満ちている。エアコンも効いているようなのだが、節約のためなのか遠慮がちで、席もあらかた埋まっている教室の中ではそれほど効果はないようだ。
学生はそれをわかっているのか、暑さから逃れようと言わんばかりの薄着で来ている人がほとんどだった。女子学生の中には朝とは思えないほど肌の露出が多い服を着ている人が真面目な顔で座っていたりしている。
野分は、ジーンズと黒いTシャツといういたってシンプルかつ学生に見えそうな服装を選んでいた。
初めて入る教室ということもあって、一番端で心持ち小さくなって座る。それでも人一倍高い身長と落ち着いた様子は自然と人目を引いていた。実際、入って来てから席に着くまでの短い間に、あからさまに見つめている人や、野分を見ながらヒソヒソと囁き合っているグループがいた。
もっとも本人はそんなことには全く気づいていないようで、席に着くと教卓前の最前列を陣取っている学生たちをじっと見つめた。
講義開始時刻の10分前になると教室の中が慌ただしくなった。
朝一番ということもあって、何かしら食べていたり、コーヒーを持ちこんでいたりした学生たちが一斉に片づけ始める。
5分前ちょうどに前方のドアが開いた。
その瞬間、ピリッと空気が変わる。
入ってきたのは男にしては細めの身体に、サラサラと茶色い長めの髪の毛と日に焼けてない白い顔。一瞬学生かと見紛うばかりだが、この人こそが文学部で最も学生から恐れられている上條助教授、またの名を「鬼の上條」
その名にふさわしい厳しい視線が眼鏡の奥からキラリと光り、教室の隅々を見渡す。
視線を受け姿勢を正していく学生の机の上には今どき珍しく携帯電話が置かれていない。
しかし、後ろの席には野分を含めて、明らかに学生ではない人々も座っており、そのうちの何人かの前には時計代わりのように携帯電話が置かれていた。
それに気づいた上條の機嫌が悪くなったのが分かり、野分は知らずに出している人に教えてあげるべきかどうしようかとソワソワと視線を投げていた。
そうこうしているうちに上條の視線が自分のところへ来た。
あ、見つかっちゃったかな?
つかの間、視線が絡んだような気がしたと思ったら眼鏡の奥の目が細くなり、眉間にぐっと深いシワが入ったのが見えた。
ヒロさんは眼鏡もよく似合うなぁ
眉間のシワを作らせた張本人の自覚があるのないのか、野分はせっかくのチャンスを逃さないとでも言わんばかりにじっと見つめ返した。
口元をぎゅっとへの字に結びながら教卓についた上條は真正面を向いて、低いがよく通る声で最早お約束となっている言葉を述べる。
「携帯電話は論外。私語、居眠りも許さないから、そのつもりで」
前方に座っているのはよく知っている文学部の学生がほとんどだったらしく、その言葉に特に反応はなかった。
しかし、夏季集中講義の初日である今日は、特別に一般参加も可能だったため、知らずに受けた何人かの聴講生は驚きの声を上げながら、携帯電話をしまいこんだ。
流石はヒロさんだ
野分はうっとりと教卓に立つ上條を見つめた。
文学部の助教授としての凛としたその姿勢は、普段、野分が見ている上條とはまた違う魅力に満ちている。
こうして仕事をしている姿を見ることができるなんて、夢のようだ
野分は心の底から自分の幸運に感謝していた。
[newpage]
「鬼の上條」の名の通り、上條の講義は単位取得が難しい。そのため、彼の夏の集中講義は通年で落とした日本文学の単位をここでなんとか取り返そうという思惑で来てる学生と上條の講義が好きだという、いろんな意味で熱心な学生とが混在し、例年受講者が多い。
そこへさらに今年は宮城教授とともに一般向け講義も兼ねることになってしまった。
気にせずに同じように講義をしたらいいと言われても真面目な性格の上條は困惑して、上司である宮城教授に相談しに行ったのだが、
「教授の講義と違って、俺のはそんなに一般受けはしないと思うんですが」
そう言った上條を
「なーに初日だけだし、万が一人数がオーバーしたら抽選にするから、少し学生が増える位に思ってやれって。そんなに心配するなって」
宮城は笑い飛ばし、肩を叩いて、というか肩を抱き抱えて励ましたのだった。
◇◇◇
「これをまわしてくれ」
最前列の席にいた自分のゼミの学生に資料を配らせながら、夏休み前の教授とのやり取りを思い出した上條は持っていたチョークを折りそうになっていた。
なにが、心配するなだ!
教室に入って教室を見渡した上條は一般公開したことを既に後悔していた。
当たり前のように携帯電話を置いているのは、おそらく一般の聴講生だろう。
社会人と思われる大人に注意をするのはあまり気分のいいものではなかったが、自分のやり方を変えるつもりはなかった上條はいつもと同じことを最初に伝えることを選んだ。
特に不満の声も上がらなかったのは、上條の方針をよく知っている学生が大半を占めていたせいだろう。
それよりなにより予想外だったのは、ここで見るはずのない顔を見つけたことだった。
なんで、ここに野分がいるんだ?
一番隅で、あんなにデカイくせに一応小さくなろうと努力していたのは、まあ評価してやらなくはないが、、いや待て、だいたい俺の職場に来ること自体がおかしいだろーが
あいつは何しに来やがったんだ
イライラと野分の方を見ると目が合って嬉しそうな顔をしてくる。
だから、喜ぶんじゃねー
「……アホ」
「上條先生?」
思わず声に出してしまった上條に資料を配り終わった学生が声をかける。
「ああ、悪い。いつもありがとな」
「いえ、あの、大丈夫ですか?」
「なんでもない」
そうだ。野分のことなんか気にしている場合じゃない
上條は、チョークをもう一度持ち直すと黒板に向かって勢いよく文字を刻んでいった。
◇◇◇
上條が話す声とチョークで板書する音を聞きながら、野分は上條の後ろ姿を眺めていた。
俺は目がよくて本当によかった
じろじろ見ても叱られないという滅多にないチャンスを思う存分堪能する。
やっぱりヒロさん夏は痩せちゃうんだよな
元々細い上條の腰回りがさらに細くなっているのが見えて野分は眉を顰めた。
常に細身の身体にきちんと合わせたスーツを着こんでいる上條でも、流石にこの季節はジャケットは着ていない。今日は半袖のグレーのシャツ。ネクタイも省略した所謂クールビズのスタイルのためか、一番上のボタンを外している。
そういえばヒロさんはインナー着ないんだよなぁ
グレーのシャツから出ている細くて白い首すじから続く均整のとれた身体を思い浮かべそうになった野分は慌てて頭を振った。
襟足にかかる髪の毛のおかげで少しは隠れているものの、ネクタイがない分、首回りの露出している範囲が広い。
夏の間だけだってヒロさんは言うけれど、夏はキケンな季節なんですよ
野分は自分の魅力に無自覚な恋人を想ってため息をついた。
ほとんどの学生は講義を聞きながら必死にノートをとっているけれど、ノートも取らずに上條を見つめている学生がいることに野分は気づいていた。
例えばあの最前列の席の男の子。
さっき、ヒロさんに頼まれて資料を配っていたあの子は、野分からすれば、ぼぅっと熱に浮かされたとしか思えない顔をして見ているというのに、ヒロさんは全く気がついていない。
板書をする上條が手を伸ばした拍子にワイシャツ越しに浮き出た肩甲骨に野分はそっとため息を零した。
これは、ちょっと・・・。
同じようにため息を漏らした人が何人かいるのも見えて、野分は額に手を当てると深いため息をついた。
[newpage]
終了を告げる声とともに活気づいた教室の中、数人の学生が上條の元へと向かっている。
ヒロさんの講義が終わってしまった
名残惜しい気持ちで野分は机の上を片づけ始めた。
朝早い講義のせいか、途中ウトウトと舟を漕いだ学生に向かって、上條が的確にチョークを飛ばす場面を見たときは、思わず立ち上がって拍手しそうになったが、そんなことをしたら自分には何が飛んでくるのかと想像しただけで激痛が走り、我慢して静かに座り続けた。
それにしても、講義中の上條は、眼鏡といい、服装といい、ストイックな様子が逆に色っぽくてたまらなかった。
これでは邪な目で見るなという方が無理というものだ。夏とはいえもっと厚着をさせなければ、と野分が一人で決心するほどに、複数の熱い視線が上條へと注がれていた。
野分は上條を見つめていたと思しき学生の顔を忘れないように、一人一人ジッと見つめた。
ヒロさんを守らなければ
そうそう来れるわけではないにしても、注意できることがあるかもしれない。
そうだ、ヒロさんにもっと気をつけるように言っておこう
出て行く人に紛れて教室の前方へと近づいていった野分は、上條へ質問している女子学生の服が肩から胸元にかけて大胆に露出しているデザインなのに気づいて思わず眉を顰めた。
態とらしく、としか思えないほどに上條の近くに身体を寄せているのだが、上條はそれを気にする様子もなく淡々と答えていて、近くを通りかかった男子学生の方がむしろ驚いて女子学生の胸元にチラチラと視線を投げかけている。
ようやく質問を終えた女子学生が友人と話しながらこっちへ向かって歩いてくる。
「だから、ムダだって言ったじゃない」
「夏だし、少しは効き目あるかと思って頑張ったんだけど」
「上條にはそーゆーの効かないよ」
すれ違いざまに聞こえた内容に驚く。
ヒロさんのためにわざわざあんな服を・・・。
思わず目で追うと、向こうもこっちを見ていて目が合ってしまった。
ほとんど職業病ともいえる反射のような笑顔を作って会釈をして、くるりと振り返ると、野分は早足で上條の方へと歩いて行った。
◇◇◇
講義が終わり、資料を纏めながらさりげなく野分の方を見ると、他の学生の顔をジッと見つめている。
俺の職場に来て他の男を見てるとはいい度胸してるな
いや、別に俺のことだけ見ていろとか、そんなことを言うつもりはこれっぽっちもねぇが
それにしたって、てめぇは一体誰を見てんだよ
「ったく」
資料を教卓にぶつけるようにして揃えていると、女子学生が目の前に立っていた。
「どうした?」
「あの、ここなんですけど、、」
熱心なのは大歓迎だ
上條は質問に対して、資料を指差しながら説明し始めた。
なんだ?よく見えないのか?
ずいぶんと近くに寄って来て覗きこんでくる学生からやたらと甘ったるい匂いがしてくるのに閉口しながらも説明を終えた。
「分かったか?」
「・・・はい。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして立ち去った方向に野分が立っていて、女子学生を目で追っているのが見えた。
視線を感じたのか女子学生も振り返って、顔を赤くしている。
おいおい、今度は女かよ。野分、てめぇ、マジで何しにここへ来たんだ?
上條は、教卓の上の物を乱暴に引っ掴むと廊下へと出て行った。
「上條先生!」
聞き慣れた声に、言われたことのない呼び方をされ眉間にシワを作りながら振り向く。
にこにこと笑っている野分を睨みつけると返事もせずに、そのまま早足で歩き続けた。
「待って下さい」
ムカつくほどあっという間に隣に並ばれて、今度は小声で話しかけられた。
「ヒロさん、怒ってますか?」
「つーか、さっきの上條先生ってなんだよ」
「ヒロさんって大声で呼んだ方がよかったですか?」
「なわけねーだろ。大体、何しに来たんだよ」
「勉強をしに」
「・・・なんのだよ」
研究室の前まで来てしまった上條は鍵を開けると、顎をしゃくるようにして野分に入れと促した。
[newpage]
ちょうど昼休みだし、何しに来たのかこの際きっちりと聞かせてもらおうか
そう思いながら、研究室の中へ入れた野分の方へ顔を向けた途端、上條の身体は野分の長い腕の中にすっぽりと抱きすくめられた。
「・・・何してんだよ」
「ヒロさん、シャツのボタンは上までしめてください」
「聞いたことの答えになってねーだろーが」
上條は野分の胸を押し返そうと力を入れたが、さらに強く抱きしめられて、身体がぴたりと密着する。
野分の胸に顔を押しつける形になり、思わず目を閉じた。
野分の匂いがする
さっきまでのイライラとした気持ちがゆっくりと消えていく
「ヒロさん、何かつけましたか?」
頭のてっぺんに鼻を押しつけてクンクンと嗅いでいる野分の仕草がくすぐったくて軽く身を捩った上條は、さっきの女子学生の甘ったるい匂いを思い出した。
「ああ、学生が何かやたらと匂うものつけてたから、それかも」
「せっかくのヒロさんのいい匂いが台無しです」
「アホ」
そう言ってようやく緩んだ腕の中から逃れた上條は野分の頭をパシッと軽く叩いた。
「痛ッ」
「俺の職場で変なことをするからだ」
誰か入ってきたらどうするつもりだよ、とブツブツと赤い顔で文句を言う上條の襟元に野分の手が伸びる。
「もちろん鍵はかけましたよ」
「お前なぁ。鍵かけたら何してもいいってことじゃねぇんだよ」
「そんなことより」
そう言ってシャツの1番上のボタンをとめようとする野分の手を上條が払いのけた。
「いいって。大学のエアコン効きが悪いし、夏休みはクールビズなんだよ」
「ヒロさん・・」
「ん?」
襟元へと落としていた視線を上げると、野分の顔がすぐ目の前にあった。鼻が触れ合う程近くで見つめられた上條は、まるで真っ黒な瞳に飲み込まれていくような気持ちになっていく。
野分の唇が上條の下唇を軽く喰み、その甘い刺激に開いた隙間からスルリと舌が入ってきた。
「んんっ・・」
甘い吐息の漏れる音と微かな水音が研究室の中に響いていく。
窓からは眩しいほどの日差しが差し込み、見慣れた本棚に見下ろされている。
こんなところで、と後ろめたく思えば思うほどに自分の吐く息が熱くなっていくのを感じて、上條はぐいっと力を入れて野分の胸を手で押し返した。
思ったよりもあっさりと退いた体温にやや拍子抜けしながらもホッとして、荒くなった呼吸を整えていた上條は首すじに熱を感じてビクリと肩を震わせた。
いつの間にかシャツのボタンが外され、晒されていた首すじへ唇が這わされている。そのままゆっくりと下りていった熱は鎖骨のところで止まり、ちりっと痛いくらいに強く与えられた。
「ッツ、」
ぺろりと舐めてから顔を上げた野分は、上條の耳元へと囁いた。
「お守りです」
見下ろすと赤い印がくっきりとつけられているのが見えた。
「痕はつけるなって言ってるだろ」
「すみません」
謝罪の言葉とは裏腹に、野分は嬉しそうに外したシャツのボタンを直していく。一番上のボタンに手をかけながら、上條に聞いてきた。
「どうしますか?」
どう見ても、そのボタンを開けていたのでは隠せそうにない赤い印に上條が唸るように言う。
「・・・しめろよ」
「はい」
きっちりと上までボタンをとめた姿に満足して頷いた野分を睨みつけた上條は、野分の額にビシッとデコピンを食らわせた。
「痛いです」
「これくらいですんでありがたく思え」
野分が赤くなった額をさすっていると、研究室のドアをノックする音がした。
「かーみーじょーおー」
「はいはい、今開けます」
上條が研究室のドアを開けると宮城がわざと拗ねたように口を尖らせていた。
「なーに鍵なんて閉めてんだよー」
「すみません」
「お前、もう昼食ったか?」
そう言いながら入ってきた宮城が野分を見て足を止めた。
「なんだ、草間くんが来てたのか」
「こんにちは宮城教授。ウチのヒロさんがいつもお世話になっています」
「いやー、そっかぁ、だからかー」
ニヤニヤと笑いながら宮城は上條と野分の顔を見比べた。
「だからって何ですか?」
「鍵なんてしちゃってさぁ。神聖なる研究室の中で何してたんだかー」
「なっ、何にもしてませんよ!」
真っ赤になった上條に、野分が鞄から出した包みを渡した。
「ヒロさん、これお弁当です」
「え?あ、ありがと」
「宮城教授の分は用意してなくて、すみません」
「野分、気にするな。教授はいつもめちゃくちゃ体にいい弁当持参だから」
「そうなんですか?」
「あー、体にいいというかなんというか・・・」
ぽりぽりと頭を掻く宮城の手には確かに弁当と思われる包みが下げられている。
「じゃあ俺、帰りますね」
時計を見て野分が出口に向かった。
「おう。弁当ありがとな」
ぺこりと頭を下げて出て行く野分を見送ると、上條は冷蔵庫の方へと向かった。
「教授、お茶でいいですか?」
「あー、頼む」
お茶を入れたコップを置き、二人向き合って弁当を広げた。
「お前のとこはいい嫁さんだな」
宮城は野分の作った弁当を羨ましそうに見ている
「・・・嫁じゃないです」
「ああ、上條が嫁か?」
「それも違います!」
そう言いながら、ちらっと宮城の弁当を見る。
見事なまでにキャベツだけだな
ある意味感動すら覚えながら上條は黙々とキャベツ弁当を食べる宮城を見つめた。
「ひょっとして、教授のとこも講義を聞きに来たんですか?」
「ああ。草間くんもか?」
「はい」
どちらともなくため息をつく。
「上條はいいよな。持ってきてくれる弁当も美味そうだし」
「よかないですよ」
上までとめたボタンのせいで苦しい首回りを苦々しく思いながら上條は唐揚げにかぶりついた。
「教授、一般公開、来年もあるんですか?」
「どうだろうなー」
宮城がお茶でキャベツを流し込みながら、呑気な返事を返す。
窓の外の強い日差しに長い夏の始まりを感じながらも、無事に初日を乗り越えた、と安堵する。
帰宅後、ゼミ生のことを野分に尋問されることになるとは思ってもいない上條だった。
おわり
ついこの前までは自分も学生だった気がしているのに、目の前を歩く学生の姿がなんだかひどく眩しく見える。
それでも今日だけは、ここの学生のつもりで過ごそう
母校ではないけれど、何度か来たことのある構内を歩きながら、野分は久しぶりに感じる学生気分に心が躍っていた。
間違えないように確認すると、少し緊張しながら教室の入り口をくぐる。
見渡して、どこの大学も似たようなものなんだな、と一人で納得しながら、空いている席を探した。
夏季集中講義の一限目。朝早い時間にも関わらず、すでに教室は夏の空気が満ちている。エアコンも効いているようなのだが、節約のためなのか遠慮がちで、席もあらかた埋まっている教室の中ではそれほど効果はないようだ。
学生はそれをわかっているのか、暑さから逃れようと言わんばかりの薄着で来ている人がほとんどだった。女子学生の中には朝とは思えないほど肌の露出が多い服を着ている人が真面目な顔で座っていたりしている。
野分は、ジーンズと黒いTシャツといういたってシンプルかつ学生に見えそうな服装を選んでいた。
初めて入る教室ということもあって、一番端で心持ち小さくなって座る。それでも人一倍高い身長と落ち着いた様子は自然と人目を引いていた。実際、入って来てから席に着くまでの短い間に、あからさまに見つめている人や、野分を見ながらヒソヒソと囁き合っているグループがいた。
もっとも本人はそんなことには全く気づいていないようで、席に着くと教卓前の最前列を陣取っている学生たちをじっと見つめた。
講義開始時刻の10分前になると教室の中が慌ただしくなった。
朝一番ということもあって、何かしら食べていたり、コーヒーを持ちこんでいたりした学生たちが一斉に片づけ始める。
5分前ちょうどに前方のドアが開いた。
その瞬間、ピリッと空気が変わる。
入ってきたのは男にしては細めの身体に、サラサラと茶色い長めの髪の毛と日に焼けてない白い顔。一瞬学生かと見紛うばかりだが、この人こそが文学部で最も学生から恐れられている上條助教授、またの名を「鬼の上條」
その名にふさわしい厳しい視線が眼鏡の奥からキラリと光り、教室の隅々を見渡す。
視線を受け姿勢を正していく学生の机の上には今どき珍しく携帯電話が置かれていない。
しかし、後ろの席には野分を含めて、明らかに学生ではない人々も座っており、そのうちの何人かの前には時計代わりのように携帯電話が置かれていた。
それに気づいた上條の機嫌が悪くなったのが分かり、野分は知らずに出している人に教えてあげるべきかどうしようかとソワソワと視線を投げていた。
そうこうしているうちに上條の視線が自分のところへ来た。
あ、見つかっちゃったかな?
つかの間、視線が絡んだような気がしたと思ったら眼鏡の奥の目が細くなり、眉間にぐっと深いシワが入ったのが見えた。
ヒロさんは眼鏡もよく似合うなぁ
眉間のシワを作らせた張本人の自覚があるのないのか、野分はせっかくのチャンスを逃さないとでも言わんばかりにじっと見つめ返した。
口元をぎゅっとへの字に結びながら教卓についた上條は真正面を向いて、低いがよく通る声で最早お約束となっている言葉を述べる。
「携帯電話は論外。私語、居眠りも許さないから、そのつもりで」
前方に座っているのはよく知っている文学部の学生がほとんどだったらしく、その言葉に特に反応はなかった。
しかし、夏季集中講義の初日である今日は、特別に一般参加も可能だったため、知らずに受けた何人かの聴講生は驚きの声を上げながら、携帯電話をしまいこんだ。
流石はヒロさんだ
野分はうっとりと教卓に立つ上條を見つめた。
文学部の助教授としての凛としたその姿勢は、普段、野分が見ている上條とはまた違う魅力に満ちている。
こうして仕事をしている姿を見ることができるなんて、夢のようだ
野分は心の底から自分の幸運に感謝していた。
[newpage]
「鬼の上條」の名の通り、上條の講義は単位取得が難しい。そのため、彼の夏の集中講義は通年で落とした日本文学の単位をここでなんとか取り返そうという思惑で来てる学生と上條の講義が好きだという、いろんな意味で熱心な学生とが混在し、例年受講者が多い。
そこへさらに今年は宮城教授とともに一般向け講義も兼ねることになってしまった。
気にせずに同じように講義をしたらいいと言われても真面目な性格の上條は困惑して、上司である宮城教授に相談しに行ったのだが、
「教授の講義と違って、俺のはそんなに一般受けはしないと思うんですが」
そう言った上條を
「なーに初日だけだし、万が一人数がオーバーしたら抽選にするから、少し学生が増える位に思ってやれって。そんなに心配するなって」
宮城は笑い飛ばし、肩を叩いて、というか肩を抱き抱えて励ましたのだった。
◇◇◇
「これをまわしてくれ」
最前列の席にいた自分のゼミの学生に資料を配らせながら、夏休み前の教授とのやり取りを思い出した上條は持っていたチョークを折りそうになっていた。
なにが、心配するなだ!
教室に入って教室を見渡した上條は一般公開したことを既に後悔していた。
当たり前のように携帯電話を置いているのは、おそらく一般の聴講生だろう。
社会人と思われる大人に注意をするのはあまり気分のいいものではなかったが、自分のやり方を変えるつもりはなかった上條はいつもと同じことを最初に伝えることを選んだ。
特に不満の声も上がらなかったのは、上條の方針をよく知っている学生が大半を占めていたせいだろう。
それよりなにより予想外だったのは、ここで見るはずのない顔を見つけたことだった。
なんで、ここに野分がいるんだ?
一番隅で、あんなにデカイくせに一応小さくなろうと努力していたのは、まあ評価してやらなくはないが、、いや待て、だいたい俺の職場に来ること自体がおかしいだろーが
あいつは何しに来やがったんだ
イライラと野分の方を見ると目が合って嬉しそうな顔をしてくる。
だから、喜ぶんじゃねー
「……アホ」
「上條先生?」
思わず声に出してしまった上條に資料を配り終わった学生が声をかける。
「ああ、悪い。いつもありがとな」
「いえ、あの、大丈夫ですか?」
「なんでもない」
そうだ。野分のことなんか気にしている場合じゃない
上條は、チョークをもう一度持ち直すと黒板に向かって勢いよく文字を刻んでいった。
◇◇◇
上條が話す声とチョークで板書する音を聞きながら、野分は上條の後ろ姿を眺めていた。
俺は目がよくて本当によかった
じろじろ見ても叱られないという滅多にないチャンスを思う存分堪能する。
やっぱりヒロさん夏は痩せちゃうんだよな
元々細い上條の腰回りがさらに細くなっているのが見えて野分は眉を顰めた。
常に細身の身体にきちんと合わせたスーツを着こんでいる上條でも、流石にこの季節はジャケットは着ていない。今日は半袖のグレーのシャツ。ネクタイも省略した所謂クールビズのスタイルのためか、一番上のボタンを外している。
そういえばヒロさんはインナー着ないんだよなぁ
グレーのシャツから出ている細くて白い首すじから続く均整のとれた身体を思い浮かべそうになった野分は慌てて頭を振った。
襟足にかかる髪の毛のおかげで少しは隠れているものの、ネクタイがない分、首回りの露出している範囲が広い。
夏の間だけだってヒロさんは言うけれど、夏はキケンな季節なんですよ
野分は自分の魅力に無自覚な恋人を想ってため息をついた。
ほとんどの学生は講義を聞きながら必死にノートをとっているけれど、ノートも取らずに上條を見つめている学生がいることに野分は気づいていた。
例えばあの最前列の席の男の子。
さっき、ヒロさんに頼まれて資料を配っていたあの子は、野分からすれば、ぼぅっと熱に浮かされたとしか思えない顔をして見ているというのに、ヒロさんは全く気がついていない。
板書をする上條が手を伸ばした拍子にワイシャツ越しに浮き出た肩甲骨に野分はそっとため息を零した。
これは、ちょっと・・・。
同じようにため息を漏らした人が何人かいるのも見えて、野分は額に手を当てると深いため息をついた。
[newpage]
終了を告げる声とともに活気づいた教室の中、数人の学生が上條の元へと向かっている。
ヒロさんの講義が終わってしまった
名残惜しい気持ちで野分は机の上を片づけ始めた。
朝早い講義のせいか、途中ウトウトと舟を漕いだ学生に向かって、上條が的確にチョークを飛ばす場面を見たときは、思わず立ち上がって拍手しそうになったが、そんなことをしたら自分には何が飛んでくるのかと想像しただけで激痛が走り、我慢して静かに座り続けた。
それにしても、講義中の上條は、眼鏡といい、服装といい、ストイックな様子が逆に色っぽくてたまらなかった。
これでは邪な目で見るなという方が無理というものだ。夏とはいえもっと厚着をさせなければ、と野分が一人で決心するほどに、複数の熱い視線が上條へと注がれていた。
野分は上條を見つめていたと思しき学生の顔を忘れないように、一人一人ジッと見つめた。
ヒロさんを守らなければ
そうそう来れるわけではないにしても、注意できることがあるかもしれない。
そうだ、ヒロさんにもっと気をつけるように言っておこう
出て行く人に紛れて教室の前方へと近づいていった野分は、上條へ質問している女子学生の服が肩から胸元にかけて大胆に露出しているデザインなのに気づいて思わず眉を顰めた。
態とらしく、としか思えないほどに上條の近くに身体を寄せているのだが、上條はそれを気にする様子もなく淡々と答えていて、近くを通りかかった男子学生の方がむしろ驚いて女子学生の胸元にチラチラと視線を投げかけている。
ようやく質問を終えた女子学生が友人と話しながらこっちへ向かって歩いてくる。
「だから、ムダだって言ったじゃない」
「夏だし、少しは効き目あるかと思って頑張ったんだけど」
「上條にはそーゆーの効かないよ」
すれ違いざまに聞こえた内容に驚く。
ヒロさんのためにわざわざあんな服を・・・。
思わず目で追うと、向こうもこっちを見ていて目が合ってしまった。
ほとんど職業病ともいえる反射のような笑顔を作って会釈をして、くるりと振り返ると、野分は早足で上條の方へと歩いて行った。
◇◇◇
講義が終わり、資料を纏めながらさりげなく野分の方を見ると、他の学生の顔をジッと見つめている。
俺の職場に来て他の男を見てるとはいい度胸してるな
いや、別に俺のことだけ見ていろとか、そんなことを言うつもりはこれっぽっちもねぇが
それにしたって、てめぇは一体誰を見てんだよ
「ったく」
資料を教卓にぶつけるようにして揃えていると、女子学生が目の前に立っていた。
「どうした?」
「あの、ここなんですけど、、」
熱心なのは大歓迎だ
上條は質問に対して、資料を指差しながら説明し始めた。
なんだ?よく見えないのか?
ずいぶんと近くに寄って来て覗きこんでくる学生からやたらと甘ったるい匂いがしてくるのに閉口しながらも説明を終えた。
「分かったか?」
「・・・はい。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして立ち去った方向に野分が立っていて、女子学生を目で追っているのが見えた。
視線を感じたのか女子学生も振り返って、顔を赤くしている。
おいおい、今度は女かよ。野分、てめぇ、マジで何しにここへ来たんだ?
上條は、教卓の上の物を乱暴に引っ掴むと廊下へと出て行った。
「上條先生!」
聞き慣れた声に、言われたことのない呼び方をされ眉間にシワを作りながら振り向く。
にこにこと笑っている野分を睨みつけると返事もせずに、そのまま早足で歩き続けた。
「待って下さい」
ムカつくほどあっという間に隣に並ばれて、今度は小声で話しかけられた。
「ヒロさん、怒ってますか?」
「つーか、さっきの上條先生ってなんだよ」
「ヒロさんって大声で呼んだ方がよかったですか?」
「なわけねーだろ。大体、何しに来たんだよ」
「勉強をしに」
「・・・なんのだよ」
研究室の前まで来てしまった上條は鍵を開けると、顎をしゃくるようにして野分に入れと促した。
[newpage]
ちょうど昼休みだし、何しに来たのかこの際きっちりと聞かせてもらおうか
そう思いながら、研究室の中へ入れた野分の方へ顔を向けた途端、上條の身体は野分の長い腕の中にすっぽりと抱きすくめられた。
「・・・何してんだよ」
「ヒロさん、シャツのボタンは上までしめてください」
「聞いたことの答えになってねーだろーが」
上條は野分の胸を押し返そうと力を入れたが、さらに強く抱きしめられて、身体がぴたりと密着する。
野分の胸に顔を押しつける形になり、思わず目を閉じた。
野分の匂いがする
さっきまでのイライラとした気持ちがゆっくりと消えていく
「ヒロさん、何かつけましたか?」
頭のてっぺんに鼻を押しつけてクンクンと嗅いでいる野分の仕草がくすぐったくて軽く身を捩った上條は、さっきの女子学生の甘ったるい匂いを思い出した。
「ああ、学生が何かやたらと匂うものつけてたから、それかも」
「せっかくのヒロさんのいい匂いが台無しです」
「アホ」
そう言ってようやく緩んだ腕の中から逃れた上條は野分の頭をパシッと軽く叩いた。
「痛ッ」
「俺の職場で変なことをするからだ」
誰か入ってきたらどうするつもりだよ、とブツブツと赤い顔で文句を言う上條の襟元に野分の手が伸びる。
「もちろん鍵はかけましたよ」
「お前なぁ。鍵かけたら何してもいいってことじゃねぇんだよ」
「そんなことより」
そう言ってシャツの1番上のボタンをとめようとする野分の手を上條が払いのけた。
「いいって。大学のエアコン効きが悪いし、夏休みはクールビズなんだよ」
「ヒロさん・・」
「ん?」
襟元へと落としていた視線を上げると、野分の顔がすぐ目の前にあった。鼻が触れ合う程近くで見つめられた上條は、まるで真っ黒な瞳に飲み込まれていくような気持ちになっていく。
野分の唇が上條の下唇を軽く喰み、その甘い刺激に開いた隙間からスルリと舌が入ってきた。
「んんっ・・」
甘い吐息の漏れる音と微かな水音が研究室の中に響いていく。
窓からは眩しいほどの日差しが差し込み、見慣れた本棚に見下ろされている。
こんなところで、と後ろめたく思えば思うほどに自分の吐く息が熱くなっていくのを感じて、上條はぐいっと力を入れて野分の胸を手で押し返した。
思ったよりもあっさりと退いた体温にやや拍子抜けしながらもホッとして、荒くなった呼吸を整えていた上條は首すじに熱を感じてビクリと肩を震わせた。
いつの間にかシャツのボタンが外され、晒されていた首すじへ唇が這わされている。そのままゆっくりと下りていった熱は鎖骨のところで止まり、ちりっと痛いくらいに強く与えられた。
「ッツ、」
ぺろりと舐めてから顔を上げた野分は、上條の耳元へと囁いた。
「お守りです」
見下ろすと赤い印がくっきりとつけられているのが見えた。
「痕はつけるなって言ってるだろ」
「すみません」
謝罪の言葉とは裏腹に、野分は嬉しそうに外したシャツのボタンを直していく。一番上のボタンに手をかけながら、上條に聞いてきた。
「どうしますか?」
どう見ても、そのボタンを開けていたのでは隠せそうにない赤い印に上條が唸るように言う。
「・・・しめろよ」
「はい」
きっちりと上までボタンをとめた姿に満足して頷いた野分を睨みつけた上條は、野分の額にビシッとデコピンを食らわせた。
「痛いです」
「これくらいですんでありがたく思え」
野分が赤くなった額をさすっていると、研究室のドアをノックする音がした。
「かーみーじょーおー」
「はいはい、今開けます」
上條が研究室のドアを開けると宮城がわざと拗ねたように口を尖らせていた。
「なーに鍵なんて閉めてんだよー」
「すみません」
「お前、もう昼食ったか?」
そう言いながら入ってきた宮城が野分を見て足を止めた。
「なんだ、草間くんが来てたのか」
「こんにちは宮城教授。ウチのヒロさんがいつもお世話になっています」
「いやー、そっかぁ、だからかー」
ニヤニヤと笑いながら宮城は上條と野分の顔を見比べた。
「だからって何ですか?」
「鍵なんてしちゃってさぁ。神聖なる研究室の中で何してたんだかー」
「なっ、何にもしてませんよ!」
真っ赤になった上條に、野分が鞄から出した包みを渡した。
「ヒロさん、これお弁当です」
「え?あ、ありがと」
「宮城教授の分は用意してなくて、すみません」
「野分、気にするな。教授はいつもめちゃくちゃ体にいい弁当持参だから」
「そうなんですか?」
「あー、体にいいというかなんというか・・・」
ぽりぽりと頭を掻く宮城の手には確かに弁当と思われる包みが下げられている。
「じゃあ俺、帰りますね」
時計を見て野分が出口に向かった。
「おう。弁当ありがとな」
ぺこりと頭を下げて出て行く野分を見送ると、上條は冷蔵庫の方へと向かった。
「教授、お茶でいいですか?」
「あー、頼む」
お茶を入れたコップを置き、二人向き合って弁当を広げた。
「お前のとこはいい嫁さんだな」
宮城は野分の作った弁当を羨ましそうに見ている
「・・・嫁じゃないです」
「ああ、上條が嫁か?」
「それも違います!」
そう言いながら、ちらっと宮城の弁当を見る。
見事なまでにキャベツだけだな
ある意味感動すら覚えながら上條は黙々とキャベツ弁当を食べる宮城を見つめた。
「ひょっとして、教授のとこも講義を聞きに来たんですか?」
「ああ。草間くんもか?」
「はい」
どちらともなくため息をつく。
「上條はいいよな。持ってきてくれる弁当も美味そうだし」
「よかないですよ」
上までとめたボタンのせいで苦しい首回りを苦々しく思いながら上條は唐揚げにかぶりついた。
「教授、一般公開、来年もあるんですか?」
「どうだろうなー」
宮城がお茶でキャベツを流し込みながら、呑気な返事を返す。
窓の外の強い日差しに長い夏の始まりを感じながらも、無事に初日を乗り越えた、と安堵する。
帰宅後、ゼミ生のことを野分に尋問されることになるとは思ってもいない上條だった。
おわり
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プロフィール
HN:
さるり
性別:
女性
自己紹介:
ヒロさん溺愛中
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